祈るしか出来ないのが辛かったけど、まだ祈る事が出来ると思うと 満ちてくる何かに包まれる。
衝動の導火線は、自分で思うよりずっともっと長い。
今ここにいる私を導いてくれたのは、思い通りにならない人の心によるものでもある。
「好き」という感情は、何故かいつも半信半疑と抱き合わせで 居る。
人の為の我慢は優しい犠牲。自分の為の我慢は我が侭な修行。
どれほど唐突に見えても、うんざりするほど遅まきでも、「知る」とは私の中の「順を追って」でしかなかった。
持ち歩く記憶も、うずめる記憶も、灰になる日は同じだ。
口に上る言葉、感じる思いが 既成であったとしても構わない。 私の胸の奥からほとばしったのなら、それで十分。
TVの天気予報が気になったら、心が動きだしたがっているのかもしれない。 出よう。たとえば雨でも。
エラそうな事をうっかりいい気持ちで話してたりする時は、調子にノッている。 そして、そのあとまるでバチが当たったかのように、ポカをして落ち込む。 その傾向をなんとかしたい。
ホットミルクの湯気は、ただの湯気ではない。 心の上昇気流だ。
辛いよ。怖いよ。好きだよ。 本音はいつも、あまりにも短くて、太い。
涙は、乾くのではない。沁みるのだ。湧水となる為に。
ベタ塗りの空でも、 雨は降るまいと思える朝がある。
インターネットは渚だ。 その先に海が広がる。 小船で漕ぎ出すと、人という島影が見える。
モノには事が宿っている。
高見の見物でしか幸せを感じられない人は、幸せの巾を少しせばめている。
小説は、頁を開く旅だ。 行き先はまだ知らない。
どんなに細い道でも道には「生」の気配がする。 だから歩ける。
一日の陽は、空を山を押しよけるように沈んでいき、 やがて確実に気配すら消す。 まるで人の一生のように。
せっかくしたのに、こんなにしたのに、の 「せっかく」と「こんなに」を取っ払う。 己の事実を見るとはそういう事かもしれない。
「考える」は、ビュンッと伸びたり微動だにしなかったり、中々に我儘だ。 その我儘ぶりを味わいたい。
「どう生きる」かが、「どう暮らす」からブワッと浮く時がある。 まるで、火傷の水膨れみたいに。
甘えさせて貰っていたのだと気づく時、 体の何処かがカタンと鳴る気がする。 それは大人になる音の気がする。
顔は笑っているのに涙目の人は、夜を待ちわびる。 闇で涙は光らないから、安心して零すために。
昔の小さい私が見つかっても、ヨシヨシと撫ではしない。 君も歩けと言うだけだ。今度はその手を離さないから。
この頃、振り切ったり置き去りにした何人もの小さい私を回収に回っているような気がする。棄ておいてはいけない気がして。
人は皆、自分色の虹を持っている。
易しい言葉にも魔法のような効力は宿る。
日常の中で、一瞬息を止める事がある。 あの瞬間は、無意識でも死んだ気になってやろうとしたのだ。